文学少年の憂鬱

 
作詞・作曲 / ほえほえPさん
コラボ動画→http://www.nicovideo.jp/watch/sm9340347


突然ですが電車が好きです。10代の頃は青春18きっぷを握りしめてひとりでいろんなところに行きました。
「ここではないどこか」に連れて行ってくれそうな気がしていた。
物心ついた時から何度も何度も思っていた。 「いっそのことどこか遠くへ」



先に iTunes の配信で世に出ている曲だったので、聴いている人は既に聴き込んでいるだろうと予測して
自分なりの解釈を強めに入れました。 曲自体、Vocaloidの枠から飛び出ていると感じたので画にミクは出てきません。

『文学少年の憂鬱』と『人間失格』の両方から奥に入っていかないと作れないと思ったので
曲の本質を掴めたと思ったところで、『人間失格』をあらためて読んでみました。
本は一度読んだらそれっきりな自分にとって一番読んでいることになる。それもなぜか人生の節目に。


中学入学直後、国語の先生が言った「昔『人間失格』をポケットに入れたまま自殺した人がたくさんいた」がトラウマになる。

高校卒業間近、今なら大丈夫かもしれないと思って覚悟を決めて読む。
すると絶望どころか、こんな視点の人がいるんだ、自分みたいのも存在してていいんだ、という妙な希望(救い)を感じて本を閉じた。

就職する直前、実家でゴロゴロしていた時ふと背表紙が目にとまり、再び読む。
文章から滲み出る弱さが気になる。三島由紀夫が「私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強みとなることぐらい知っている。
しかし弱点をそのまま強みへもってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。」と太宰治について論じたように
この頃の自分は、ひたすら己を強く構築することで負の部分を乗り越えようとしていたので
弱さを垂れ流しているように感じたこの小説に嫌悪感を抱いた。(その嫌悪感は近親憎悪的なものだったと思う。)

そして、
社会人になり現実に揉まれる中で、積み上げてきたつもりだった自信はあっさり崩れ、恋愛のいろいろ、人への依存、喪失、身体の病気、
自分の力ではどうにもならないあれこれを経験した今「それでも生きていかなければいけない」ということを感じて本を閉じた。
絶望でも希望でもなく、ただそこにあること。ただここにいること。



「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
黙っていたって、電車は目の前に滑り込んでは去って行く。

動画のひとつひとつの動きにメッセージを込めていますが、ひとつだけポロッと言うと
最後のシーンは、『人間失格』の本編の最後とかけています。
でもそこに込めた想いは、小説(太宰治)のものとは異なります。
『文学少年の憂鬱』を聴いた時に感じた希望を込めました。私が曲(ほえほえさん)から受けとった希望は
それでも、(信じることを)諦めないこと、(生きることを)諦めない、ということ。


人生、自分の思い通りに行くなんて限らない。
自分の外では意思と反することが日々起こるし、ましてや自分の内をコントロールすることだってままならない。
繰り返される日常の中で、ボロボロになっても非力でも無気力でも孤独でも辛くても痛くても苦しくても
あるがままを直視し、何かにしがみついてでも、真摯に、生き抜くこと。
いつか必ず向こうから滑り込んでくる「最期」までぐっと目を見開いて。





「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
少年はいつまでも少年であらず。

生き抜いた時に彼が見る景色は、少年の頃のものとは何かが確かに違うにちがいない。


2010.01
オサレP



戻ります

 

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